【毒親必見】おおたわ史絵先生「母を捨てるということ」を読んだ感想
女医である、おおたわ史絵先生が書かれた本を読みました。率直な感想として、「捨ててないよね?大袈裟で紛らわしい表現だな」と思いました。
母を捨てる
とあるのに、実際は捨てきっておらず、結局最低限は関わりを持ちながら、助けてあげているのだ。
それって「疎遠な母との関係」とか「母と距離を置いてみた」など別の言い回しの方が、いいような気がする。
どうも、中途半端な印象だし、何だかんだ言って、縁を切っているつもりになっているだけで、助けてあげているのがイライラするのだ。
切り捨てていないじゃん・・・・
読後感が後味悪く、歯切れも最悪なのである。
薬物中毒だった、おおわわ史絵先生の実母
開業医の父経由で簡単に医薬品が手に入り、おおたわ史絵先生の実母は鎮痛剤オピオイドを腹痛のため使用し、ついに中毒になってしまう。
一方で、失礼ながら開業医であるお父さんは、勉強不足なのでは。おおたわ史絵先生が女医として勤務する大学病院にてオピオイドの厳重な管理を知るまで、肝心のお父さんは劇薬としての認識が甘く、懇願されるがまま簡単に渡すあたり、疑問に感じた。
つーか、ありえないでしょ。
娘が大学病院での厳重な管理方法を見るまで、父が薬のヤバさを認識せず、家族内でオピオイドをやり取りするって・・・・
本当に失礼ながら、不勉強で妻に甘い医者であり、乳飲み子と前妻を捨てたろくでなしにしか見えないのだが。
開業医は最新医学を勉強しないと、取り残される懸念があるんだなと思いました。
お母さんの肩を持つ訳じゃないけれど、小学校低学年の時に母(おおたわ史絵先生の祖母)から捨てられ、姉だけ母と暮らし自分は酒乱の父と過ごすって・・・・過酷すぎて涙がでる。
毒親の親も毒親
当然ではありますが、おおわた史絵先生にとっての毒親は母である、一方で母も悲惨な生い立ちであり、おおたわ史絵先生の母も母(おおたわ史絵先生から見て祖母)から捨てられ、愛情を知らない運命でありました。
やっぱりな
と正直思います。愛情を貰っていないから、返せないのです。
しかも、おおたわ史絵先生の母はまだ小学校低学年なのに、母が酒乱で仕事をしない放蕩の父から逃げ、姉だけ連れて行ったという想像を絶する環境下で過ごされました。
酒乱でヤバい男、つまり今でいうDVやモラハラの夫から逃げるため、一日に数本しかないバスまで着の身着のまま全力疾走で逃げ、母を追った姉妹は足が速かった姉のみバスに連れられ、妹であるおおたわ史絵先生の母は捨てられたのだ。
逃げたくなるようなDV男と幼子が暮らすって、どんだけ・・・・
つーか、妻への虐待は子へいき、おおたわ史絵先生の母は辛く当たられながらしんどい思いをしていたと想像できる。
結局高校生になるころ母が引き取ってくれたそうだが、おおたわ史絵先生の母の自己肯定感をぶった切ったのは、このことが原因でしょうね。
しかも、おおたわ史絵先生の母が亡くなってから、親戚に生い立ちを聞くまで、知らなかったというから驚きだ。家族といえど口外したくもない忌々しい出来事として封印されていたのだ。
涙が止まらない。
だからと言って、おおたわ史絵先生へ執拗に執着した挙句、教育ママになり医師になっても、一切褒めないのはいかがなものかと思う。
唯一、気を許せて攻撃できる相手は娘になりやすい。しかも、長女はターゲットに選ばれる確率が高い。
毒親というものは、子への攻撃を認識せず、無意識レベルで行うから厄介である。意識的に攻撃したりいじめているなら、まだ策士であるが、ストレス解消の八つ当たりなので手に負えない。
おおたわ史絵先生も健気な方だなと思う。幼少期から長い間散々な目に合っているのに、毒親だと思っていないそうだ。本には「毒親だとは思っていない」と書かれている。
人様のことだから、私が口出しする案件ではないが、どこからどう見ても毒親でしょ・・・・
昔の人とは言え、おおたわ史絵先生のお母さんのように母から捨てられ、父に引取られ壮絶な幼少期を過ごした方は、大勢いるのだ。
その子孫が毒親として君臨し、暴力・暴言を引き継ぎ、自分がされたように虐待育児をしている始末。
いまの年金暮らし世代は、毒親って認識もない人達ゆえ、40代50代の子世代は本当に苦しい思いをしているはず。
話を読書感想に戻そうw
依存症患者は、医者ですら偏見の目で見られる
アルコール・ギャンブル・薬物・買い物・セックス依存など、依存症は一つが治まっても、別の分野に入り込み容易に再発する。
アルコール断ちからの、ギャンブル依存。
ギャンブル断ちからの、セックス依存。
薬物依存からの、買い物依存。
のように、他に以降していき結局治すのは難しいのだ。
なぜなら、依存することで心を保ち、寂しさや虚しさを紛らわせているからだ。これは、何となくだが理解できなくもない。
だが、医者なのに依存症を偏見の目で見るとは何ぞや。あたかも、日本社会が未だに精神科への通院に対して、偏見があるのと同義なのではないか。
小さい時、母から愛情を貰わずに育つと大人になっても心が満たされず、何かを消費して危うい心のバランスを保とうとする。
一方で、消費行動をしても一向に満たされず、却って虚しさがつのり、もっと欲しくなるものだ。ドラッグがやりたいからするんじゃなく、不安をまぎらわせるためにやるようなもの。
おおたわ史絵先生は、立派に女医として活躍なさり、壮絶な育ちをされたとは思えない。だが、心に埋められない穴があるから、マスコミに出て承認欲求を満たし、必死なのだ。
その気持ちはわかる。
小さい頃、母に褒められなかったり、けなされてばかりだと、他者に認められたい願望は常にあるのだ。これは、もう持病のようなもの。
イケメンご主人がいて可愛いペットがいるのに
おおたわ史絵先生には、イケメン歯科医のご主人がおり、愛くるしい犬がいるのに心の寂しさはあるようだ。一見、人が羨むような経歴で女医なのに、何が足りないのかしらとも感じるが、虐待母を持つと、一生寂しさを引っぱるのだ。
それにしても、よく他人と生活出来るなと思う。
やはり、父との関係が良好であり、母との関係にストップをかけてくれる存在、というのは大きいはず。
父も母と一緒になって、おおたわ史絵先生の自尊心を滅多切りにしていたら、女医どころか不良になっていたかも。
強烈な猛毒親というのは一日にしてならず。
親から捨てられ愛情をもらっておらず、愛を知らないゆえ、子の愛し方がわからず八つ当たりしてしまうのだ。いつまでも小さくて非力な子ではなく、いつか抜かされるのに・・・・
おおたわ史絵先生の母が教育ママになったのは、納得だ。妻子から略奪して後妻に入り、子を産んだのだから、何が何でも医師に育て上げたかったのだろう。
狂気すら感じるが・・・・
略奪したおおたわ史絵先生の母より、妻子を捨てた父の方が許せないし、信用ならない人物ではないだろうか。
男女の仲ゆえ、いろんなことがあるだろうが、乳飲み子を捨てるとは何事か。
昭和の時代なので、圧力も相当なものだったはず。
勉強しないと叩かれるのは、昭和あるある。特別なことではないが、ミルクセーキに下剤を混入して飲ませるあたり、普通じゃないと感じた。
愛する我が子が可愛くないから、下痢に苦しむ姿を見て楽しみたかったのか、ストレス発散として出来心からやってしまったのか謎だが、恐怖である。
捨てた、改め距離を置く
「母を捨てるということ」って衝撃的なタイトルゆえ、本を楽しみにしていた。おおたわ史絵先生は毒親持ちだと知っていたから、尚更待ち遠しかったが、大袈裟なタイトルである。
正確には捨てていないし、ちょっと距離を置いただけ。
父が亡くなってから、おおたわ史絵先生への執着が激しくなったそうだが、それまでは夫であるおおたわ史絵先生の父にすがっていたはず。
愛着障害がある依存症の方は一人で立っていられず、取りすがる対象が不在になるとターゲットを変えるのだ。
しつこい電話攻撃からの心配しろアピールwわかりやすくて可愛らしいが、おおたわ史絵先生には、たまったものじゃないはず。気持ちはわかる。
正直、おおたわ史絵先生の母は物質的に恵まれていても、自己肯定感を破壊されてしまった影響で、最後まで心の空洞を埋めようと人やモノに依存しては、構ってちゃんアピールもしていたようだ。
センセーショナルな切り捨て方をしたのでは、と予測させるようなタイトル「母を捨てるということ」だが、実際は距離を置いただけで捨ててはいないし面倒を見ている。
嫌いになりきっていないんだな。
そう感じた。
育ちが悲惨でお気の毒な方は、愛着障害をもたらし、子を愛し可愛がり正常な育成が不可能になってしまう。父に引取られた場合、大抵は心が満たされないまま大人になり、寂しさを抱えて生きている。みんなそうなのだ。離婚しても母子家庭であれば、父子家庭よりはマシ。働いているので母子家庭も十分な愛情をもらう時間はないのだが・・・・。
おおたわ史絵先生のお母さんが母に捨てられた件は、さらっと数ページしか書かれていないが、そこをもっと掘り下げていくと、キツク当たり散らした理由が判明する。
そこを読むまで、おおたわ史絵先生のお母さんは何て酷い女だと思っていたが、一変して可哀そうだなって涙が止まらない。
毒親に悩む方には必見かもしれない。納得できる箇所が散りばめられ、思わずぐっと来るのだ。